アストラル建築試論(4)アストラル・デッドスペース
 およそアストラルとは縁遠いノリになりつつあるけど、ま、行きがかり上。
 関係性の整理/認識、つまり観察の対象になるのは、もちろん人間の(心理・霊性を含む)活動ばかりではない。なぜかどこかで騙されているような気持ちになりがちな、従来型のライフスタイル論や生き甲斐探しの堂々巡りに陥らない為にも、ここでひとまず即物的方面へシフトしてみたい。リアルの建築の場合、そう、敷地。小さく行こう。戸建住宅密集地域の日常におけるありがちなお間抜けシーン。休日の昼頃ゆっくり起きておっ、いい天気だなとベランダに出た途端フリフリのランジェリーを干している隣りの奥さんといきなり目が合ってしまった。或いはリビングでしどけなくいぎたなくお昼寝中の爺のキン○マが思わず覗けて見えてしまった・・・。いずれもあまり気持ちのいいものではない。原因は、隣地境界との間に発生する1mにも満たない小さな小さな中途半端なデッドスペース。筆者には、この日本の都市に特有の『設計しようにもできない複雑な隙間』(塚本由晴『「小さな家」の気づき』王国社)こそが、現日本の(魔術を含む)文化状況を象徴しているように思えてならない。その成立に法的な根拠があろうとなかろうと、人工的に設けられたにも関わらずデザインされていない空間は、すべからくデッドスペースであると言っていい。ここで言う「デッドスペース」は、例えばコールハースが好んで使う「ヴォイド(空虚)」とは全くの別モノである点に注意されたい。
 悲しい真空地帯の悲しさの理由は、それが発案者の意図に反して対○○関係における余計な軋轢を解消する緩衝剤とはならず、むしろ気まずい出会いの演出装置として機能してしまっている点にある。
 そんな訳だから、テンプルをデザインするなら、まさにそこがテンプルとして使用されているその瞬間、すぐ隣りで同居人が魔術とはおよそとぜ〜んぜん関係ないことをしている空間のギリギリきわきわまで、設計作業を徹底するのが望ましい。 境界との間に中途半端な緩衝地帯を設けることを、エチケットとは言わない。それこそ、境界の向こう側との関係性の健全な認識/制御を自ら放棄するに等しい行為なのだから。法は万人のものとされるアストラルの領域での話ともなれば、尚のことである。

 戸建住宅のことを言い出すなら集合住宅も扱わなければ片手落ちだろう。という訳で、みかん組の団地リノベーションとか取り上げたくなってきたけど、まあ、脱線もほどほどに自粛。けど私の駄文から脱線とったら何が残るてか? さあね。魔術とは世界一美しい脱線の表現なのである。とか言うて。まあ、隣地境界の例あまりにも分かりやす過ぎるやないですか。

そんなこんなで1メートル幅のデッドスペースをデザインせよ!



アストラル建築試論(3)
 魔術の実践で使用する空間を指して、実践者は<テンプル>などと言うが、多くの場合、実際にはただの居室である。特に、一人以上の同居人と同じ空間をシェアしながら生活している人の場合は、むしろ<テンプル>は<テンプル>として機能していない時間の方が遙かに長い。このような空間を、<テンプル>としてだけ都合のいいように、リアルで作り込んでしまうのはいかがなものか。良い悪いの問題ではなく、多くの場合そうはできないだろうと、単にそういう話。筆者は、主としてそういう読者を想定しながらこの駄文をタイプしている。
 まず、<テンプル>空間をともにシェアする相手(多くの場合“あなたのテンプルを自分ではテンプルとして使わない人”だろう)との関係性を、制御すべき対象と考えた場合、必要以上に閉塞した場を用意する必然性はない。魔術用のテンプルはレコーディングスタジオではないのだから。
 リアル住宅建築の間取りの場合、パブリックスペースから独立し直接外へつながった子供部屋は、一定の年齢に達し、親を介さず直接<外の社会>とつながりを持ち始めた子供の意志/人権を尊重しよう。という考え方があって初めてカタチになったもの、とするのが一般的である。これに対し、最近再び増えているのが、リビングを通らなければ個室に入れない間取り。こちらのベースにあるのは、家族間のコミュニケーション、来客とのコミュニケーションもマトモにできない人間を一人で勝手に<外の社会>とつながらせてどうする! という考え方。筆者は、どちらかと言えば後者の考え方に立っている。

 なんやぜんぜん舞い上がらんな。まあ、<さしたる根拠もなく大風呂敷を広げられる厚顔無恥さ>と並んで、<ミニマムに対する感受性>も<魔術>の実践に際して大切な要素でしょう。そんなこんなで、、、、何も思いつかんわ。