FraterCS2004-11-11

 眠いね。まいった。ボージョレヌーボー解禁に先立って街(の一部)はもうクリスマス。ところでなんやさっきからその中途半端な懐メロは。世良正則? まさかとは思うがサンタのバラードとか言うんちゃうやろねじぶん、頼むでほんま。そんなこんなで久々にチョットだけ。


アストラル建築試論(6)越境

 1.一見、外部に照らして正確に座標が割り出されたかに見える、相対的な自己のポジショニングに信を置かない。少なくとも固定的には捉えない。
 2.相対的なしかし断定的な自己のポジショニングに代わり、ヘリオセントリックで絶対的なNOW HERE感覚を、関係性認識=創造の前提とする。
 3.デザインされていない人工空間=デッドスペースの否定、及び意味のない陰や不明瞭さに価値を置かないユニフォーム・ライティングを良しとする。
 以上は、筆者がアストラル・アーキテクチュアへ向かう際の基本的な態度であり、これまで思いつくままにDo the Blogしてきた内容の骨子でもある。アストラル・アーキテクチュアと聞いて、魔術実践者の多くは、即、アストラル・テンプルを連想されるやも知れない。最も狭義のアストラル・テンプルとは、通常<イメージ中で集団作業を行うために、イメージ中で共有する神殿>を指すようだが、筆者はしばしば、単に魔術関連の作業スペース=テンプルを指してこの言葉を用いる。ここで言う<アストラル・アーキテクチュア>は、更にゆるく広く、単なる<イメージ中のたてもの>ぐらいに理解されたい。

 住居におけるプライベートスペースが、外の<諸社会>へつながるためのチャネルであると同時に、家庭内(玄関以外のパブリックスペース)への<諸社会>の侵入を遮断する装置としても機能しているように、アストラル・アーキテクチュアは、<諸世界>との関係性を制御するための、極めて趣味性の強い装置と言える。リアル建築の場合と異なるのは、任意の別世界への<越境>に際して、必ずしも利用者の物理的空間的移動を伴わない点。<諸世界>は、今・ここに何重にも重なって存在すると考えられるからである。 このあたりの見えない階層構造は、例えば、生命の樹と照応するかたちで<アッシャー界><イェツラー界><ブリアー界><アツィルト界>として認識することが可能とされる(ブラバッキー婦人の神智学協会では、更に細かい階層構造が説かれた)。
 ところで、アストラル・アーキテクチュアは<イメージ中のたてもの>であるとは言え、100%イメージのみからできている訳ではない。例えば、魔術実践者の同居人がその存在にすら気づかないテンプル(神殿)。そこに据えられているアルター(祭壇)は、同居人にとってはアルター(祭壇)ではないかも知れないが、彼・彼女にとっても何かしら現実のアイテムとして、確かにそこに存在している。
 魔術から離れた場合はどうか。今、目の前に在る現物の椅子とテーブルに合わせて、壁紙やカーテンはどんなのにすればいいかなと思案している人が、まさに今思い描いている壁紙やカーテンは、彼・彼女のイメージ中にしか存在しない<アストラル・インテリア>であり、当然それは<アストラル・アーキテクチュア>を構成する要素と考えられる。
 「夢の中で見たお城」などの例外を除き、実際のアストラル・アーキテクチュアは、多くの場合、現物の背景にイメージ中でイラストを合成するような要領で建てられる。そして、現物部分は「ここにも在る・あっちにも在る」、イラスト部分は「ここには無い・あっちには在る」。筆者は、この現象を<アストラル・アーキテクチュア利用者の最初の越境>と説明したい。