何かね、非常に疲れている。原因は、主にコミュニケーション上のことらしく。実を言うと私は、ボサー&ノンビリしている割に結構イラチだったりもする。だから、“自分の世界”を持っていてこだわり・思い入れは強いんやけど掴みが悪く、聞かれてもないのに語りたがる女性とか、割と駄目。丁寧に説明したつもりがどーにも理解してもらえずピントのズレたリアクションをされてしまい、いや、そうじゃなくて・・・とニコニコしながら最初に戻る。で、はい。とか言いつつハンでついたように誤解してくれる。そんな相手には、正直なところほとほととほほでお手上げだ。

 アストラル建築試論で書いていたことと矛盾するかも知れないが、遮断とか接続とか、本当は大して重要なことではないかもしれない。てかね、開放って、閉塞って、どーゆーことよ? と。異常に掴みの悪い相手と話している時やなんかに、ふと思うことがある。思う機会が増えている。

 今思い出したけど、森達也『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』の中で、サティアンの中の談話室だか休憩室だかで、信者たちがテレビのニュース番組を見ている様子が紹介されていた。麻原逮捕後のことでもあり、それが教団内で禁止されていないということに著者は相当驚いたようだ。そりゃあそうだろう。目は開いているが見えない。耳だってあるんやけど聞こえない。人間には、そんな状態が確かにある。だから、やっぱ外の情報との接点があるとかないとか、本当は別にどうだっていいのである。「ネットで繋がって」いようが繋がってなかろうが、そんなものも根本的にどーだっていいです。
 『もしも当時2ちゃんねるがあれば、オウムは、あのような事件を起こせなかった』『そうではなくて、もし当時2ちゃんねるがあったなら、オウムは、もっと酷いことをしただろう』・・・もちろん、私が賛成するのは後者の考え方だ。繋がっているから大丈夫なんて、そんなアホなセキュリティはないでしょう?

そんなこんなで“ネット魔術界”なんて存在しません。