グラウンド・ゼロ? 

外出時にコンドーム装着して鳥インフルエンザ対策のつもりでいられる人は幸せだと思う。おらんかも知らんけど。「××は良くない」式の単純に効力のない無駄口はスキップの上シンプルモダンにLOHASしたい心境のこの頃。テロへと向かうインテリ老人たちの愚行を描いたアフター911小説・大江健三郎『さようなら、私の本よ!*1』より、

『・・・おれは自分が建築家になる動機だった、ヒロシマ・東京の大廃墟パノラマの・・・それは、やはり古義人の友人の建築家、石崎信(いしざきしん)が若い時に作ったパノラマ・コラージュの・・・』


WTC跡地の映像を想起する際のアストラルBGMはラスタの歌手がバビロ〜ンとか言ってる感じだった自分が、図らずも原爆ドームのモノクロ映像を瞬間レイヤー。ま、そんなことはどーでも良いとして。
磯崎新(いそざきあらた)の“UNBUILD”。建たんかったんはコンペで採用に至らなかったデザインか、何らかの事情により頓挫した計画か。否、これは「再び廃墟となった未来のヒロシマ」のコラージュでありアストラル反建築とでも言うべき作品。

『・・・やがてワールド・トレード・センターが建っていた場所を『爆心地』(ground zero)と・・・日本人からすれば異論のあるところで*2・・・』
要するにヒロシマこそ真に“グラウンドゼロ”と呼ばれるに値するという言い分らしい。上記の「日本人」は、2005年現在「日本の老人」と読みかえた方が多少理解しやすくなるかも知れないが、「やられた側」が「やられた気持ち」を表す表現でしかなく、「やられた程度」の違いによりふさわしい/ふさわしくないの話でしかない限りにおいて、いずれにせよ終わってる感強く*3。むしろ、この何にもない感じをベースに立ち現れるスーパーフラット〜ハイパーフラット・イメージに付き合うことが覆水盆と正月のMagick的だし、グラウンド・ゼロユニバーサルデザイン化こそ、今我々が切実に突きつけられている課題であると言えるのではないか。

WTC跡地をどーするか・・・のコンペで最終的に勝利を収めたのはユダヤ人の建築家ダニエル・リベスキンドレム・コールハースは『ニューヨークは、テロ攻撃で負ったトラウマを自らのアイデンティティーにすべきではない』とか言ってコンペへの参加自体を断ってしまった*4安藤忠雄*5は、地球を模した地下空間を含む慰霊公園を提案*6。採用には至らなかったものの『カーサブルータス』やなんかでも大々的に紹介されていたプランは、「トラウマ・アイデンティティー」の意味合いをナチュラルにずらしてしまったというか、緑いっぱいで、子供連れて遊びに行ってみようかというノリだった。これなんかひとつの切り口=みんなのヒントだと思ったし、今も思う。元霊園*7の売れない宅地に『ゴルゴダの丘』みたいなネーミングを施し、お洒落なカフェとかつくったり。

以上敬称略にて錯乱No NewYork

*1:

さようなら、私の本よ!

さようなら、私の本よ!

*2:http://helicopt.hp.infoseek.co.jp/gzero03.html

*3:しかも、「やられた側」は、それ以前に充分やっつけてたじゃないのという見方もあり得る。

*4:そして中国中央電視台CCTV本社新社屋のプロジェクトを受注する訳だが、その中国がまたいろいろと大変みたいで、ごっつい建築を建てるためのマネーは大変なところでこそ流通しまくるものだと、まあ、そんなふうにも言える。

*5:昨年のある日、何かのテレビ番組に出演された折り「住むことは戦いだ」と熱く語っておられたが、「なんで戦わなアカンねん」とか言いつつビール飲んでたりで自分はちゃんと聞いてなかった。ちょっともったいない気分だ。

*6:

建築に夢をみた (NHKライブラリー)

建築に夢をみた (NHKライブラリー)

*7:桜が似合うはずだ