続・センズリヨーカン(英会話やってんのかて?)

で何と言うか、続き。異文化間コミュニケーションみたいな。

旧友にちょこっと会う機会があって喋っていると、最近英会話などやっているのかと。? 何でそんなこと言い出すのかと聞けば、だって君サ行の発音が強くなっているじゃあないかとのこと。そんなもんやらんけど、ネイティブの英語とか中国人の英語とか、多少聞く機会は増えたかも知れない。で、たまにもめーあいの何とかかんとか(怪しい発音の単語を並べて)OK? などと問えば、
しゅあ!」
と凄い勢いの返事があってビックリしたり。いえ何もそんなリキ入れて答えていただくほどの質問では…と思ったりもするのだが、ヒョーイされてしまったか。仕方ない。彼らはそーゆー連中なのだ。そして、たぶんこれはコトバの違いなどと言うよりは文化状況の違いのような気がしている。ちょっとした誤解が雪だるま式にナンギとなり、収拾つかなくなる。そーゆーのを恐れる連中なんだろう。ほにょほにょと切れ目無く流れるような(アラン・ホルズワース? そんなギターを弾くおじさんがいたのを思い出した。ジョン・スコフィールドとかもそうか)コトバを喋る癖にSure!とかNo!とか、そのへんだけやたら強く、あたりがけのように明瞭で、ある種必死な感じさえしてしまう。
何となく通じてしまう社会に長らく生きてきた我々日本人の場合、この種の必死さを血として受け継いではいない。血として受け継いでいないから魔術的にやるしか仕方ないなどと思う訳で。 でないと私たちは、状況が変わっているにも関わらず同じ事をやり続けてしまう可能性が高い。
自分の話が相手に通じなかった場合を想起されたい。自分の場合、伝え方をしくじったと考えるより、安易にあの人ホント分かってないねえ…へ行きがちな気がする。でしょ? ほんまかないませんわとテキトーな相槌を打ってくれる人間も結構いたりするし。でも、それでOKな状況が終わっていることは明らかな訳で*1、相手を悪く言う余裕もないほど単にふつーに通じないケースなんかの場合どーするよ。
随分減ってきてはいると思うが、BBSやなんかでもめたとき、原因を相手のジョーシキやコクゴリョクのテイドせいにして落ち着いていられる人とかは、たぶんこのへんの認識がぬるいのだろうと思う。

そんなこんなでミキティお疲れさま。それにしても今日の俺は大前研一か?

*1:例えば某国人と取引の最中、こちらの労働に対する対価として当然いただけるものと思っていたン千万円について、突然払えないあるよとか言い出された場合、“あいつら分かってない”で済まないことは言うまでもない