ユルパンの憂鬱*1〜波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由・第2・第3章

敬称略にて。宮台真司をゲストに迎えての第1章「脱政治化から再政治化へ」がしんどいものであったことは先日も書いたが*1、この“萌える言論人”東浩紀編集による対談集。全編に渡って、伸びきったパンツを履いてだらしなく何かを諦め、ひたすらたそがれているかのような冴えない気分と閉塞感に満ち満ちている。そもそも、時代の、社会の問題点を話し合うという企画なんだから、元気の出るような読み物になりようがないことも確かなんやけどな。これが今の空気ですてか? 自分のトランクスまで何だか古くなってユルくなってズレてしまいそうな気分だ。抑圧はされてないけど息苦しいようなユルい閉塞感は、いっぱい穴は空いてるんだけどそこそこタイトでシルエットがピッとキレイなジーンズとかが、ランドスケープ的街/風俗的に救いになっているような状況と符号する。タイトなフィット感とかキレイなシルエットとかは、無理矢理言うなら、身体性とセットのリアリティに対して喉が乾いた状態を象徴するかのよう。

第2章−リベラリズム動物化の間で−(北田暁+鈴木謙介東浩紀,2004/2/14):
ゲストは北田暁大*2。デザイン誌で知っている名前だが著作読んだことなし。ちなみにこの人のはてなダイアリー「試行空間」はCSアンテナに登録している。宮台式のシンドイ告白はないが、東とのやりとりには、抑圧はされてないけど閉塞しているユルパン時代の空気が横溢し、ある意味第1章以上にどよ〜んとしている。学会/言論界の動向を何となくへえそおなんやと読むこともできるが、団塊ジュニア世代の学者/言論人にとっては、ポモとかニューアカとか一連の80年代的なものからどう距離をとるか*3は大問題のよう。影響もあり反発もある。その下の世代の場合〜ここでは鈴木氏がそうだが〜特にこだわりはないらしい。そのあたりの、何とゆーかいつぞやのベルボトムブレイク前夜にも似た雰囲気がしっかりと記録されている。だから、モード的には、今読むんなら絶対そのへんだとも言える。たいがい文庫で買えるし。まずはボードリヤール*4浅田彰*5、ハードコアに攻めるならぜひドゥルーズ*6。これも一種のエコー消費*7ね。しかし、人文系の言説に対する待望感って、そんなに濃厚なんかな?
北田氏の場合、解釈学的“シンボル読み”の連鎖によって、身体性を取り逃がすハメになるのを避けたい。という動機が強かったようだ。『工学的な思考とリバタリアニズムの幸せな結婚が、僕たちの社会を未曾有の状態に追い込みつつある』という東氏の発言からは、オタク趣味がのっぺりした閉塞感に対する苛立ちを伴いながら、逆説的に身体性へ向かっている様子が読みとれる。とは言え、オートマティックで動物的な身体への作用=効果(これはこれで萌術的に利用可能と思うよ)と、体感のリアリティは明瞭に区別しておきたい。てか、Magickやる上では必須と考える。ちなみに東の定義では、オタクとは『アニメやゲームやネットにアディクトしてる人一般』を指すらしい。
斉藤環さんがお怒りになっていた「ゲーム脳」論がありました。/たぶん斉藤さんを支持する人たちの多くにとっては、斉藤さんの反論は本当は専門的すぎてわからないはずなんです。しかし、とにかく「知の欺瞞」の臭いがしたものに対しては徹底的に叩く・・・』
これは自分のことアホよばわりされたと思ってアタマきたゲーマー達が一斉に反発しただけの話でしょう。
『自由の内実/所有権に基づいたリバタリアニズム的なものと/他者への開放性を重視するリベラリズム的な/そして/いま、リバタリアンな自由を最大限に認めることが正義なのだ/ シンプルな自由観/厄介な/ ですね/情報技術と相性がいい/つまり/監視社会と 』
六本木ヒルズとか汐どめで見られるセキュリティ管理、クラス維持のやり方。邪魔になるクラスターの不可視化。抑圧ではなく排除。ゲーテッドコミュニティのロジックが際限なく拡大し、社会を覆い尽くすみたいな危機イメージ。「排除の論理」と「降りる自由」はセットで考えたい。

第3章−再び「自由」を考える−(大澤真幸鈴木謙介東浩紀,2004/11/19):
ゲストは大澤真幸。閉塞感は続くが、私はシンドイとゆー話を聞かされて疲れる不愉快はさらに減。宮台氏と大澤氏のキャラや立ち位置の違いによるところ。著作*8はもちろん読んだことない。
この章、もはや露骨にいきなり身体論から。
『自分と世界はどう関係しているかという軸/自分と同じように固有の世界を持って関わる別の主体−いわゆる「他者とどう関係するか、という軸/「他者に危害を加えない限りあなたは自由です」/は/ 危害を加えあう もの/前提他者についてのリアルな感覚がなければ偶有性の自由表裏一体の主題と身体の主題・・・』
てことで、メルロ・ポンティなどにも触れられる。そして、
東の言う『人間的水準=規律訓練型権力の領域が急速に縮小/動物的水準=環境管理型権力の領域がどんどん拡大している時代』の「自由」をめぐって対談が進められていくが、東の関心は「監視社会へのカウンターパート」というところへ収束していってる印象。
「話し合いのテーブルが用意された状況では話し合いに応じるべきだ」というロジックの身勝手さも、東の「降りる自由」等とも関わりながら繰り返し指摘される。そもそもそんなもの、どっちかの価値観=都合に沿って用意されたに過ぎないという至極当たり前の話。否応なく見えてしまうのは、話が通じない或いは話し合う気のない相手を非難する空しさ、さらには怪しい前提に基づくリベラルという立場のそもそもの怪しさだが。これは、リスク管理に伴うリスク増大の危険性という、大澤が「あんなもの思想ではない」と言ったとか言わないとかの「リバタリアニズム」的矛盾とはまた別種のものだ。
身体論に戻すと、大澤さんが最後の方でこんな発言を・・・
『技術は決してニュートラルなものではない/ 臓器移植などの生命倫理の問題における主題/身体の自己所有ということは、かつてのリベラリズムにとっては、純粋に抽象的な問題だった/臓器移植やゲノムの読みとり/ 身体の自己所有は/操作しうる現実的な対象です』

そんな訳で、そこそこタイトでシルエットがピッとキレイなジーンズによってとりあえずそこそこ救われている気色の悪さの理由とかも、ちゃんと見えているに越したことはない気がする。あと、本を持ち歩いたりそこで読んだりするなら、何となく人文系をお奨めしたい気分だ。

*1:宮台の著作は1冊も読んだことないけど、世間的にたいへん著名なこの社会学者は最近〜実際に対談が行われたのは2003年12月〜しんどいんだそうで、対談読んでるこっちまでしんどく、ついでに何だかとても困った気分にさせられた。現状に危機感を持って政治へのコミットメントを訴え、行動されていることはわかるし、彼が指摘する「バカ左翼転じてバカ右翼」みたいな割と困った連中の存在も、まあ、誰もが知っていることだろうけど、ほかならぬ“ブルセラから天皇にネタをシフトした”宮台自身がその典型みたいに、少なくとも表面的には見えてしまう点も、困った感じに拍車をかける。このあたり、本人は『あえて』と繰り返してはいるが、だからどうだと言うのだろう? 読者にどうしてほしいと思ったのだろう? 情状酌量とゆーか、『あえて』がつくことで評価を変えるなんてのは、“善意から出た迷惑行為にはじっと耐えるべき”と同様ひどく理不尽に思える。まあ、現実問題としては、実害の及ばない範囲ならグレーによろしくやっていけばいいかと思う

*2:嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)』『広告都市・東京―その誕生と死 (広済堂ライブラリー)』『広告の誕生―近代メディア文化の歴史社会学 (現代社会学選書)

*3:こんなベタベタのチラシの打ち合わせでボードリヤールがどーのとかゆーなよな的、80年代的困った感を払拭した広告論という意味で、北田書き物は確かに新鮮だ。対談の中では、そのへんの動機について、たぶん割合まともに語ってくれている

*4:消費社会の神話と構造 普及版』『シミュラークルとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)』『象徴交換と死 (ちくま学芸文庫)

*5:構造と力―記号論を超えて』『逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)』『ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

*6:差異と反復』『ニーチェ (ちくま学芸文庫)』『スピノザ―実践の哲学』『プルーストとシーニュ―文学機械としての『失われた時を求めて』 (叢書・ウニベルシタス)』『千のプラトー―資本主義と分裂症』『アンチ・オイディプス

*7:リゾーム』の復刊。とゆーより文庫化希望

*8:自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)』『身体の比較社会学〈1〉』『身体の比較社会学〈2〉