知恵熱ケア(1)メルロ=ポンティ的

(1)というのはイキオイ。特にシリーズ化するつもりもないまま何となく自らの知恵熱処理年的。おさなごころの完成とか言った方が文学的かも知れないが、面倒だからなるべくなら簡単に済ませようとゆーのもありつつ何となくアフターケアを的。blogにエントリする意味はイマイチわからないが、もともと何か考えがあってやってる訳でもないしな。
日頃 見たり感じたり何となくこれはこーゆーもんだろうと思っているもの等々を、意識とか身体とかその関係とかいったあたりをとっかかりに考え始める。てか考えてもしゃーないなと思い至る。それがC.S.的にメルロ=ポンティ的 ということ。
<幻影肢>というのがある。らしい。事故等で手とか脚を切断した人が、既に無いはずの手とか脚の部分(何もない空間)に痛みや痒みを覚えるというアレ。これが痛くてしょーがない場合どーするかというと、鎮痛剤や麻酔よりも、イメージ中で幻影肢=自分の身体の既に無い部分を切断する方が効果的ということだ。まっとうな人で、事故等によるパニックは一応治まって、自分の右なり左なりの手なり脚なりは、もう切断されて無くなったんだ、ということを冷静に客観的に、少なくとも頭では認識できている人が、そんな困ったことになってしまうんだそうで。ほれ見てみい、頭で理解できたって何も意味ないやん。と、都合のいいC.S.的解釈が生まれる。さっさと出ようぜみたいな。だが、それがメルロ=ポンティを読む*1に当たっての基本的に推奨されるべき態度だとも思う。<幻影肢>的な対象*2といかに付き合うか、あるいは付き合わないか。このへんの操作や距離の取り方関わり方みたいなことは、現在の自分の興味の対象と密接に関わることだ。が、気が付けば単にそんなことでは済まず、“社会的に”重要もしくは重要ぶって見せることが可能な話になっている。みたいよ。