カウンターカルチャーとしてのワンゲル

徹底討論 私たちが住みたい都市 身体・プライバシー・住宅・国家 工学院大学連続シンポジウム全記録』第一章に出てきた興味深い話。に関するエントリ。あるテーマに即して山本理顕氏(建築家)のナビゲートとのもとに行われた社会学者と建築家の対談が4つ。本書は、そういう体裁の本である。その第一章で、社会学者の鷲田清一氏が、「身体」というテーマに関連して、ワンダーフォゲルの話をされていた。
そう。ワンダーフォゲル。爽やかに歌い出す芹洋子さんのVとか浮かんだか? まあええけど。実はこれ、最近何でか気になっていた言葉。もう少し具体的に言えば、地方の旅館でNHKを見ている感じとゆーよりはむしろ<山伏的ワンダーフォゲルにはまる都市の不良少年少女たち>のイメージ。こいつが魔術的な意味でさらに明瞭なイメージを形成しそうな予感いっぱいで。修験道ハイキングと言い替えも可能だが、今年の夏は機会があればどこかでキャンプファイヤーでも。とマジで思う。2006年の霊性的トレンドは、かようにレイブな気分でゴシックワンゲルな訳である。
鷲田氏によれば、住人に不衛生な生活を余儀なくし、劣悪な環境下で子供たちにまで労働を強いるような19世紀後半の産業社会に対して批判的な意識を持ったギムナジウムの生徒たちが 、ベルリン郊外のシュテーリックにおいて立ち上げたワンダーフォゲルとは、人類史で最初の十代による自発的な運動体であった。ということになる。また、『パサージュ論 (岩波現代文庫)』のヴァルター・ベンヤミンなんかもそこに参加していたという。ふ〜ん、ここはひとつ対抗文化史という視点から、バッグパッカー的トラベラーズカルチャーの源流として捉え直してみるてのはどうか。ペイガン系とか神道系の人たちの多くが好んで実践する霊性的ハイキングとの親近性も見逃せない。
http://shinryokukan.moe-nifty.com/keikyomoudou/2006/02/post_c236.html
いずれにせよ、結果的にピュアな思いが偏狭なピューリズムやナチズムへと回収されてしまうという帰結の話*1も含めて、このことは重要に思える。ちなみに鷲田氏は、ピュア指向というワンゲルのハート〜80年代の清潔ブーム〜最近のガラスカーテンウォールに代表される透明建築といったあたりを重ねて見ているようだが、このへん読者にとっての宿題と言うべきか。しかし、やっぱりな。マージナルに対するヒステリックなプレスがやばい*2。のは今に始まったこっちゃないらしい。

*1:例えば、画面の外の事象との関係性によって評価されるような絵の価値は本物と言えるだろうか? そんなピュアな疑問をピュアに追い求めていった結果、画面全体を1色に塗りたくるとか、もっと言えば何も描かないのがいちばん素晴らしいという病的な結論に達してしまった“純粋絵画”とか。悪名高い純血主義とか

*2:これに対し、例えばhttp://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_3612.html#more竹熊氏の指摘する「パンティとズボンと(下着としての)パンツが全部パンツになっている」みたいな状況についてはマージナルが豊かで良いと思う