暮らしとインターネット(笑)

インターネット的 (PHP新書)

インターネット的 (PHP新書)

 ソースを示すつもりがいきなり違っているように思うのだが、気にしないことにする。



 たぶん1990年代のいつかの話。コピーライターのと言うより「ほぼ日」の糸井重里氏がインターネットを始めた時、最初に見たのはやっぱりとゆーかアダルト系サイトだったそうだが、これもやっぱりとゆーか、すぐ飽きてしまったそう。なぜなら、次、もっと違うのを探そうにも、検索キーワードが出て来ない。チキショーいっそのことオレは変態だったらよかったのにと、「フツーの裸」「フツーのエロ」にしか興味のない自分の変さ値の低さを悔しがりながら、彼がその時確信したのは、
 「こいつはマイノリティ向けのツールだな」
ということだった。
 マイノリティがかつて持ったことのない力を得たことで、数的に劣っていることが必ずしも負けを意味しないという画期的な状況が開けた。反面、主にサブカルチャーの領域において、マイナーが反転したカッコ良さ、少数派故の優越性の主張は急速かつ決定的に不可能になっていく。あるいは阿部薫の即興演奏がそうであったように、シリアスになればなるほど爆笑との親近性も深まるという法則が広く認知されるところとなっていく。
 こうして、ポーズとしてのマイノリティが一掃された後、本当に発見されるべきものは潜る。あるいは、客観が目まぐるしく動いた結果、一貫してのびのびとそこにそのまま在りながら、関心のない者からすれば実質的に潜っているのと変わらないことになっていく。



 エロサイト巡りを通じある種の確信を得るに至った際、糸井氏が漠と捉えていた「向いている人」、彼自身の言葉でいう「マイノリティ」とは、言い換えれば「検索キーワードをたくさん持っている人」「自らの欲求をクールに対象化または過剰に意識している(または意識せざるを得ない)人」だが、その一方、言外でシンメトリーに「向かない人」として捉えられていた集合は、「マジョリティ」ではなく「フツー」であった。もちろん普通の人なんて本当はどこにも居ないよ…などと今更なおことわりを経由しつつ、この場合の「フツー」とは、よろずそれぞれに個性的な属性を持つ人々が「共通」して、とくに世界を征服などするでもなくあるいは逆に自らの身を滅ぼしかねないほど酔狂するでもなく、当たり前に何かしながら生きている。そんな光景を指す。そこで大切なのは、人数ではない。むしろ認識、あるいは禅的茶の湯的とも言える世界観の方。
 自分は、「美人屁もすりゃ糞もする」的なことを平気でまたは得意そうに言ってしまえるような美意識*1には、はっきりと不快感を覚える方だが、「検索キーワードを持たない者は情報弱者へと転落していくしかない。だから…」式のペニス2.0センチ的脅しに屈するよりはマシであったかも知れない、と、ここ2〜3年をバックスクロールし、なんのことはない、インターネットは最初の時点からTwitter(的なもの)の登場を待望していたことを知る。
 果たして、この小径はどこへ続くのか? そのどん詰まりにあるのは<開放>か? <閉塞>か? <開放みたいな閉塞>と<閉塞みたいな開放>はどう違うのか? 何を書いているのかわからなくなってきたところで平和に比喩的に「ペンを置く」。





*1:連中には、きっと「真実を暴くジャーナリストの矜持」と「パパラッチ氏が抱える個人的事情」の区別すらつかないだろう