実践関係MEMO(3)続MAGICKAL YOGA

 一般に、と言いつつまるで一般的でない話をしているのだが、MagickにYogaが入って来たのは、クロウリー以降とされている。それまでは、どう見ても「ヨガみたい」な、別系統で発達し違う名を持つ同じようなことが、別なところで実践されていた…という話、個人的には納得していない。もしかしてそれ「わざと」でしょう? 
 黄金の夜明け団創始者たちは、当時、ブラバッキー夫人の神智学協会など東洋系が人気を集めていた英国オカルトシーンの状況に、ある種の焦りを感じていたが故に、黄金の夜明け関連の文書においては、「ヨガ」が暗黙のNGワードとなっていた。でなければ、当時のオタク道を極めたような超好事家たちが、揃いも揃って「ヨガについてはまったく存じ上げません」というのは、少々不自然な感じがする*1



 まあ、上記のような与太話はともかく、
 「魔術師を志す者は、ヨガを実践に取り入れた方が良いか?」
という問いに対しては、素直に「良いと思います」と答える。まあ、言えるのはそれだけ。調子に乗って余計なことを喋り、新たな迷信の創作に加担してしまうことを、自分は若干危惧する*2。日本の西洋魔術界隈には、相変わらず迷信好きドグマ好きの人たちを引き寄せてしまうある種の引力が働いており、自分はそこに、自戒を込めつつ<日本の西洋魔術>特有*3脆弱性を見るからだ。絶望はしていない。していたらこんなことはしていないだろう。おかしな日本語だ。
 それにしても、迷信による束縛から自由になろうとしてオカルトへ向かったにも拘わらず、結局のところ自ら新しい迷信に嵌りたがるとはどうしたことか? 否、本当の意味でシリアスな呪術的宗教的拘束など経験したことがない故、成人した後<魔術>にそれを求めるのだろうか? よく分からないが、きっと迷信にハマることは楽で気持ちがいいのだろう。自分はそれを良しとしない。
 せっかく、生活自体がシンクレティズムそのものといった風情の、ゆるい文化的遺伝子を持つ日本において、これは残念なことだ。



 最後に、前回触れかけた<目的の設定あるいは意識の在りよう如何でまったく違った体験に成り得る>という禅的茶の湯的トレーニングの例を、ちょっとだけ紹介してこの駄文をおしまいにしたい。短くもお退屈さまでした。
 _Abrahadabra: Understanding Aleister Crowley's Thelemic Magick_において、著者Rodney Orpheusが紹介している_Yoga_は一見まるでフツーの西洋魔術の基礎訓練。<アーサナ>は、God Postureすなわち椅子に腰掛けて背筋を伸ばす「神の座」でOKだし、<プラーナヤーマ>として紹介されているのは、四拍呼吸。
 そして、<ダーラナー>として紹介されているのは、要するに<視覚化>の練習。ただし、目標は単に<見えるようになる>ことではなく、そこに<意識を結びつけ、完全に固定する>ことである。

*1:ちなみに、クロウリーが最初にヨガに出会ったのは、G∴D∴時代、団の先輩を通じてだった模様。ヘンでしょう?

*2:「視覚化ができないうちに行う一切の儀式は無意味である」など、千歩譲っても大嘘だと言わざるを得ない

*3:言い過ぎかも知れないが