現代魔女術ワークグループ「ウフィカ」讃


Majo , Now & Here. Jomonian Witchcraft WorkGroup “UPHYCA” rise from Japan.







― 沈黙の音を聴け! 無限の外へ出よ! 知らない歌を歌え!(某セレマイト)








Hang on to yourself.



東洋の魔女「ウフィカ考」みたいなことを書こうと思いつつ10月を迎え、ついでに新月に酩酊。この際、文化史的な考察と存在意義、誕生の必然性などについてはBangi Vanz Abdul氏による論考http://23youbi.seesaa.net/archives/201310-1.htmlを参照いただくとして、僕の方では(自分が女の子でないのをやや残念に思いつつ)単純に賛同の意を表明したいと思う。
自分は、狭義の定義ではウィッチクラフトの実践者ではない。似たようなことはやってるんですがね。それだけに、「ウフィカ」にかこつけて自分が言いたいことを言ってるだけじゃないか、と思われる向きがあるやも知れませんが、そこはまあ何卒。オカルティストは大らかでないとあきません。




【自己参入について】「魔女に頼む」より「魔女になる」を選ぶこと。
ウフィカ(アイヌ語で「燃やす」の意)は、リアル会いの参入儀式を必須とするカブンではなく、自己参入儀式を経たソロ魔女をグループの一員として迎えるワークグループである。メディア環境をはじめとする諸条件が整った今だからこそ、可能になったアイデアだ。しかし自分は、それ以前に、主催者そして「魔女になろう」という当事者一人ひとりの意志と、自然で柔軟な姿勢に着目したい。これは、テイのいい大義名分を捏造した上でやっと動き出せる自分を思うと、相当に羨ましい部分であり、同時に、時代を象徴する必然的な傾向と思えるからだ。
プロの占い師にみてもらうのもいいけど、自分でタロットカードと対話するうち、自分の内側/外側の今まで気づかなかった領域に踏み込んでいた。チャネラーって凄いなと思っていたが、やってみたら自分にもできた…。もちろん、それなりのガイドが必要なことは言うまでもないが、周囲を見渡せば、そこかしこの微妙な領域にDIYの流れを感じることができるだろう。伝統的なカブンや流派の役割を否定するつもりは毛頭ない。ただ、伝統や正統性に対する偏執的なこだわりにはぞっとしないものがある(ここだけの話だが、個人的な経験に照らすと、“正しい”“ちゃんとした”を連発する手合いには、あまり面白くない人が多い気がするし、そのような性癖自体、当人の不安の証左と考えられる)。
書籍の中に見る60〜70年代の“西洋の”魔女たちは、みな性差の問題に敏感であり、露骨にポリティカルな言動をとった人も、そうでない人も、結果的に、合意現実の一部としての「社会的性差」の概念を解体変容させる勢力だった。一方、ウフィカの探求、と言うよりそこへ向う態度は、明らかに次のフェイズへ移行済み。今まさに自分は、日本におけるポスト・ネオペイガニズムの動向を目撃しているという訳。


【過去への想像力】自分が生まれるずーっと前の世界を思うこと。
 逆説的だが、“いまここ”を体感/体現するには、自らが設定あるいは服従する“いまここ”の枠組みから出て、一時的メタナラティブ(事情で“大きな物語”を禁句にしている為カタカナで失敬)を創造する必要がある。早い話、想像力の射程は長くとった方が面白いし、より効果的だということ。ウフィカは、伸びやかに「縄文」まで達する。この点については、併せてもう一つの重要な意義を指摘しておきたい。
残念ながら、キリスト教文化圏で創作された参入儀式が、日本人参入者にもたらす衝撃は、その成り立ち上、ある部分でどうしても、やや“考えビックリ”にならざるを得ない面がある。その意味で、日本発のリージョナル・デザインは待望されて久しいものだった(筈だ)。しかも、それは、決して閉塞指向のデザインではない。メンバー一人ひとりの意識の古層にある「それ」が、ユニバーサルなキーワードである「火」を介して、遠く異なる文化圏の呪術的・宗教的伝統のエッセンスにリンクするのである。トートタロットに馴染んでいる人なら、アテュ(大アルカナ)の20「AEON/永劫」のカードに描かれた「火による刷新」を思い起こされることだろう。あるいは僕の趣味ではそうなるということ。


【未来への想像力】自分が死んだずーっと後の世界を思うこと。
 自分が地上から消えた後の世界に、思いを巡らせること。と言っても、子や孫の代といった近未来の話ではない。人類そのものが、今とはまったく異なる存在様式にまで進化を遂げているかも知れない、リニアな“クロノス時間”で計ろうものなら頭がクラクラするほど遠い先の未来。そこでは、既に“わたし”などという小さな枠組み自体、溶けてなくなっているかも知れない。少なくとも、今と同じ意味ではあり得ないだろう。
 …といったことを、単なる思考実験ではなく、体感を伴う実践として行うデザインとノウハウ。一部好事家だけのナードな秘密領域に押し込めておくのは、いかにももったいない気がするのは自分だけだろうか。
願わくは、皆さんが持てる限りの想像力をブーストし、辿り着いたその先に、純粋な「笑い」のあらんことを(無責任に断言すると、そこで悲しくなったとしたら、たぶん何かが間違っている。んだと思いますよ)。
武運長久を祈る。




Love is not loving.