山本理顕『<新編>住居論』平凡社ライブラリー

家族とは『<共同体内共同体>である』。だから『住居という装置は、ふたつの共同体、家族という共同体とその上位の共同体とが出会う場面を制御するための空間装置である』。という視点で展開される住居論。つまり『内側と外側との関係を問題にする』こと。それは『両者の境界を問題にするということ』であり、『その境界線上で両者がどのように接続され、あるいは切断されるかというそのシステムを問題にしているのである。』
まあ、建築の問題てのは、<建築以前>から始まる上、ぶっちゃけ<建築以後>こそが重要に決まってるんやけどね。

著者は、ル・コルビュジエの『住宅は生活の容器である』、もうちょっと言うと<中身の生活を忠実に反映する>というある種のギョーカイの神話に対してまず中指を立てた人。もしそれが本当なら、生活スタイルの多様性と住宅建築の画一性の間に生じる齟齬をどう説明するのか。と。何でなんよ? 
で、『現実の生活とか家族に応じてできあがっているものではなくて、生活像だとか家族像だとか・・・期待する像に応じてできあがっているからだと思うのである。』と、いたって当たり前の結論になる訳ですが。さて、ここからが実践です。

<共同体の入れ子構造>があって<内と外>があって<インターフェイス>があって<接続と切断>があって<現実とイメージ>があって・・・。ネタとしては充分やないですか。
都市の家、いなかの家、なんとかギョーカイのなんとか社という経済社会の中の家、魔術界という趣味の世界の閉鎖的な家、スターリング的にネットの中の家・・・だらだら書いても際限ないけど、そのへん制御する装置を見たり描いたり。サーフェスデザインとしてやね。


そんなこんなで秋葉原出張組