アキハバラゲシュタルト-Last Exitとしてのサティアンふう-
 オウム真理教の「地下鉄サリン事件」と言えば、古い魔術関係者にとっては聞くだけで気分が重くなる話、最近興味を持ち始めた人たちの多くにとってはたぶん既に昔話。と思う。が、とにもかくにも否定したい。忘れたい。関係性を断ちたい対象には違いないだろう。しかし、現状、彼らの遺産は奇妙なところで社会に浸透してしまっている。彼らの教団施設を指す「サティアン」という言葉がそれ。ある種の建物のスタイルを言い表すボキャブラリーとして「サティアンふう」「サティアン的」「サティアンみたいな」・・・・。「閉鎖的な」「窓の少ない」「意匠としての洗練を欠く」・・・などと説明するよりは、それらの意味合いを全部ひっくるめて「サティアンなんとか」。例えばそれは、おそらく多くの魔術ファンにとって馴染み深いであろう“萌える街”秋葉原のビル群のゲシュタルトを形容する際に用いられる。おっと、ここで、彼らの犯罪と建築様式を結びつけようなどとは思わない。それこそ、犯罪者と彼・彼女らが通っていた学校・住んでいた家や街を、単純に「=」で結んでしまうに等しい誤謬のもとだろうから。
 2001年に出版された五十嵐太郎新宗教と巨大建築』は、近代以降に誕生した新宗教の建築様式と都市デザインを、その世界観との関連の中で読み解いていくという内容だが、なぜかオウムはスルーされている。もとい。様式として確立されるに至っていないという理由で外されている。著者によれば、『宗教の初期状況においてサティアン的な建造物が発生するのは、必ずしも特殊なことではない』とのこと。未だ宗教建築として評価・研究の対象にできる段階ではないという訳だ。ついでに、こんなフレーズも。
 ----我々がサティアンにとまどい、短略的な評価に走ったのは、不気味な存在が宗教ではないと考えることで安心したいからだ。

 よろず発展(※必ずしも良い意味ばかりではない)途上の段階では、得てして「忙し過ぎて、他にやるべきことが多すぎて、外見になどかまっている余裕はない」といった状態も、まあ、起こりがちではあるだろう。
 ところで、“萌える街”は発展途上なのか? これはちょっと話が違うだろう。全てのオタクたちが、そんなにご多忙とは、とても思えない。新しいゲシュタルトが生まれ出ようという兆しが見える訳でもない。仮にも流行りモノなどを売るショップの入った商業ビルが、少しも意匠を気にかけないなど、異様なことに思える。大丈夫なんか? それで大丈夫なんですよお客さん。そういうマーケットなんですから。(以下省略)

 とは言え<表層=深層>だ。岡本太郎式に「歴史があって今があるのではなく、今があって歴史がある」のだとすれば、今すぐ評価すべきだろう。第一、秋葉原のビルは宗教建築ではない。
 当たり前の話だが、秋葉原スタイルの「サティアンふう」とも形容される素っ気なさは、ミース・ファン・デル・ローエの"Less is More"という美意識とも、一切の無駄をそぎ落とすというミニマリズムの発想とも、一切無関係だ。そぎ落とした結果ではなく、最初から決定的に重要な何かが欠落していたと見るべきだろう。そこに、およそ美意識と呼べるものは見いだせない。表層意匠を無意味化するほどの「発展途上」のエネルギーも、速度も。強いて速度と呼べるものがあるとすれば、際限ない横滑りの速度か。「閉塞」というスタイルをとった最終出口が、自己完結しながら立ち並んでいるだけの光景。どう考えても、秋葉原では出口が閉じているのだ。