それでもMAGICK2.0

意味はない。とは言ったものの、実のところMAGICK2.0て何なの? 未だ形になっていないとしても(どのみちカタチになるようなもんちゃうねんけどや)このへん、敢えて語るとすれば、筆者の場合必然的にアストラル建築試論だ。直喩としての建築。つまり、関係性の認識を言語的に進めていくことから構造主義が生まれたように、関係性の認識を空間的に進めていくことから何が生まれるか。この新たな状況、またはそれを可能たらしめる方法=新たなパースペクティブを開くスピリチュアルワークの総称を、仮に<Magick2.0>としてみよう。それはあくまで術者固有のポジションから見たアストラル・ランドスケープであり、あらゆる構造分析が厳密な意味で客観性を担保できないのと同様、間違っても普遍的真理などではない。言えそうなのは、自分とAさんの間に想定される関係性を、「濃い」とか「薄い」よりは、「遠い」とか「近い」で把握するやり方の方が遙かにらくちんかつ正確なのではないかということ。
濃いって、いったい何%ぐらいの濃さなのよ? さあ、たぶん30〜40%てとこじゃないか。つまり、醤油大さじ3杯に対してみりんをこのぐらい・・・。これに対し、30メートル前方でこっち向いて手を振っているAさん、豆粒のような大きさにしか見えないBさん、腕の中のCちゃんてのは分かりやすいじゃないの。ワタシとアナタの関係ってそんなに薄いものだったの? とか、何とはなしに過酷な修羅場が想像されるのに対し、じゃそこ500メートルほど行ったとこにある蕎麦屋の角までご一緒しましょう。で、時間が空いてたらお腹空いてたら天ざるで軽く一杯、なんてのは非常にらくちんでいい感じだ。
人間は、手に負えない見えないものを可視化することで、何とか扱えるようにすることができる。スケジュール表なんて、そのもっともたるものだろう。『超整理法・時間編ISBN:4121012224』の著者も、確かそのようなことを書いていた。また、”ABRAHADABRA ISBN:1578633265”の著者は、MAGICKの儀式で扱われるペンタグラムなどの象徴が術者の想像上のものだとしても、それが引っ張って来るエネルギーはリアルなんだぜと主張している。マジュツかなんか言ってる人たちには、ぜひ、そのへんのところの意味を考えていただきたいと思う。

レヴィ=ストロースの一般向けの著作はC.S.的に面白いが、学術論文の方は殺人的に退屈で七面倒くさい。つまり、一歩一歩着実に<関係性の認識を言語的に進めていく>という、構造主義者としての、学者としてのハードワークが少しも軽減されていない状況の例。
音楽を聴きながら電車に乗っていると何でからくちんだったりする(聴いているのが例え激しい音楽であっても)のは、それによって視覚への過剰な負担が軽減されるからではないか。と考えてみる。ひとつには、これこそが、関係性の認識を空間的に進めていくことの意義である*1と私は思う。
そんなサボることばかり考えてたら人間ロクなことにならんぞてか? 断っておくが、私は、頑張る人を馬鹿にするつもりなど毛頭無い。疲れている人、元気のない人が、しばしばネガティブで退行的な過ちを犯してしまうということを経験的に知っているだけだ。知的作業としてのロジックの単純化は、ボンクラならくちん指向にないねじれた否定的側面を、確かに抱えている。
例えば、一神教というアイデアが、宇宙の流出論的解釈を理路整然と容易にしたことは間違いない。しかし、同時に一神教というアイデアには、潜在的に“関係性へのまなざしをくもらせてしまう”という難儀な傾向があったということも、指摘しておく必要があるだろう。論理的整合性を得る為には、世界観における微妙なパースの狂いなど無視して良いと言うことなのだろうか。あるいは、それをおかしいぞと思えないほどに人々は疲弊しきっていたのか。ともかく、このあたりを何の疑いもなく受け入れられてしまうような、とても幸せで時に迷惑な感性の醸成に貢献しているということ。また、19世紀になされた、一神教が進歩的であるとの主張は、上記のような感性を進歩的であるとするに等しかった。関係性の認識が、どこかで空間的に大きく歪んでいる西洋中心的思考*2は、現代思想関係の入門書の類とかで、レヴィ=ストロースらによって粉々に粉砕されたものとされている場合が多い。しかし、残念なことだが、それが思想界というオタクの一タコ壺の中でだけの話であることは明白。・・・は言い過ぎか。本当のことを言えば、日常レベルにおいてさえ変化はとんでもなく大きい。むしろ、宗教とか日本的西洋魔術の世界だけが群を抜いて遅れているのかも知れないし、そっちの方がよっぽど問題だろう。てことで、MAGICK2.0の方向を無理矢理示してみましょうと試みた休憩時間。不当に抑圧されていた霊性の奪還に、いわれのない服従は無用というなんや普通の結論になってしまったようだ。

そんなこんなで、まずは『超整理法ISBN:4121011597』を参考に意識の祭壇上に居座るガラクタを片付けるとか。 

*1:たまには日頃使わない筋肉を動かしてみましょう的に、<言語偏重の結果陥ってしまう袋小路を、空間イメージの活用で回避する>ぐらいの話。<関係性の認識を空間的に進めていく>ことと<目の負担を軽くする>こととは、ほとんど無関係です。ちいとばかしコンフュージョンな比喩ご勘弁を。

*2:もちろん、一神教=西洋中心思想ではないし、一神教というアイデア自体、西洋オリジナルとは考えにくい。むしろ筆者がここで問題にしたいのは、2つの発想の”困った相性”である。ぐらいのところでご理解いただければと思う