<キャンプ>についてのノート。についてのノート。

そもそも何で今頃スーザン・ソンタグ*1を読もうと思ったか。
キッチュな感じでカワイイやん」
か何か言う度に、アカン…伝えたいニュアンスぜんぜん言葉にできてへん…と、思えば久しくもどかしかった。
キッチュで(あるいは“キッチュが”)カワイイ」
ではなく、
キッチュ“な感じ”でカワイイ」
とわざわざ回りくどく曖昧な言い方をしているあたりに私の苦しい胸の内を読みとっていただけるならば、筆者としてこれに勝る喜びはない。


ともかく、このままではいけないということで、少なくとも自分の中では、意識して一応の区別はつけていた。そして、「キッチュ」のようで「キッチュ」でないいい感じ、好きな感じを、「キャンプ」と呼んでやるのはどうかと思いついた。どこかしら必死な感じがカワイイとか素敵と感じたら「キャンプ」。余裕かました悪趣味がどちらかと言えば不愉快な場合は「キッチュ」であるというふうに。そう、キーワードは<カワイイ>と<素敵>。
しかし、このへん、日常会話の中で
「これ、いいでしょ?」
と言っている相手に対していきなり
「俺は不愉快です。徒競走でわざとテレテレ走ってびりになりくさった後、いやー本気で走ればボクの方が速いんだよ、とか卑怯な予防線を張りながら自慢たらしく負け惜しみ言っている小学生みたいな感じで…」
などと厳密に区別をつけてしまうのは口論の、もしかすると殴り合いのもとになりかねない。


で、そもそも私は<キャンプ>についてよく知らないのである。これが。そんな言葉を日常会話で使う人間、生まれてこの方周囲に存在したためしがないのだから仕方ない。
取り敢えず『<キャンプ>についてのノート』を読んでみよう。立ち読みではなく買って読むことにしたのは、立ち読みの時間がとれなかったからである。じゃなくて…スーザン・ソンタグという、ある時代を代表するイデオローグが、ある特殊な感覚に対してどのようにアプローチしたか、そこにはもしかしたら、<コンテンツ=サーフェスデザイン>というコンセプトが、平たくかっこよく示されているのではないか…要するに『反解釈』というタイトルは昔から気になっていて、それが文庫本になっていたからだ。
感覚へのアプローチということなら、エルンスト・マッハという人が『感覚の分析』という本*2を書いているが、もちろん、こっちは感覚的な言葉で書かれている訳ではない。てか、そんな書き方をしたら分析にも何もならんかっただろう。


ところで、しばしば“体系がギクシャクしている”などと指摘されることのあるクロウリーのMAGICKは、キッチュではなく<キャンプ>だろう。…否、そもそも黄金の夜明け団に端を発する近代西洋魔術そのものが<キャンプ>ではなかったか? キャンプでない西洋魔術なんて…私はチョット信じられない気がするよ。


問題は、それがどんなロジックで主張されたかではない。『<キャンプ>についてのノート』の著者は、“わかる人にだけわかる感覚”について“黙して語らず”の反対をやった。語ることを選んだ。しかも、微妙に無粋を避けつつ…(と聞いていた)。
スーザン・ソンタグ女史は、映画に戯曲、絵画に俳優…何でもかんでも例に挙げながら 、『○○はキャンプだが××はキャンプではない 』と、延々繰り返す。ところが、著者の言う○○や××を知らない場合、そんなセンテンスは自分にとってほとんど意味をなさない。だからと言って、文中に出てくる○○や××を逐一追いかける気など毛頭無い。



以下は、『<キャンプ>についてのノート』からの抜き書きとメモ。

    • 25−キャンプがキャンプであることを保証するのは、常軌を逸した精神である。キャンプとは、三百万枚の羽根でできたドレスを着て歩きまわっている女である。(略)

 ぶっ壊れ方・もしくはぶっ飛び方が<素敵>と思うことはよくある。但しそれは、宴会でパンツを脱ぐになるような感じとは厳密に区別したい。

    • 26−キャンプとは、真面目に提示されはするが、「ひどすぎる」ために、完全に真面目には受け入れられない芸術のことである。(略)

 「真面目」と「ひどすぎる」が結びつくのは当然に思える。

    • 30−もちろん、キャンプの標準は変わりうる。これには、時の経過が大いに関係がある。現在のものはわれわれにとって身近にすぎ、またわれわれ自身の日常生活の幻影に似すぎて、そのもののもつ幻想性がわれわれには見えないことがある。(略)

 これは都合のいいフレーズ! 自分はキャンプの何たるかを知らない…なんて最初から気にすることなかった訳だ。

    • 31−(略)古くなったり質が悪くなったりする課程を通じて、必要な距離が生まれたり、必要な共感が呼びさまされたりするというだけのことである。(略)時の経過は、その芸術作品を道徳的意味づけから解放し(略)……もうひとつの効果−時の経過は陳腐さの領域を縮小する。(陳腐さとは、厳密に言えば、必ず現代にだけ成立するカテゴリーである。)(略)

 しかり。キャンプとはアナログディレイでありメロトロンである。または、それらを愛でる感覚である。てか?

    • 36−(前略)それは、「失敗した真面目さ」の感覚であり、経験を演劇化する感覚である。キャンプは、伝統的な真面目さがもたらす調和と、極限状態の感情に完全に共感してしまうことの危険の両方を、拒絶するのである。(後略)

 いわゆるフラットとかクールとか言われているところのもの。もっと言えば"CHILL OUT"な感じ?

    • 38−キャンプとは世界をつねに審美的に経験することである。それは、「内容」に対する「様式(スタイル)」の勝利、「道徳」に対する「美学の勝利」、悲劇に対するアイロニーの勝利の具体化なのだ。

 おっと、<コンテンツ=サーフェスデザイン>どころの話ではなくなってきた。

    • 41−(略)キャンプは《真面目さ》に対して、新しくてこれまでよりも複雑な関係を保っている。われわれは、不真面目なものについて真面目になることもできれば、真面目なものについて不真面目になることもできるのである。

 よくあるセレマ的逆説のようなセンテンス。思いっきりフザケたことをやるのに、パートナーが不真面目だと言って不平を言った経験のある人はいないだろうか? 私はありまくりだ。

    • 42−「誠実さ」だけでは充分でないことに気づいたとき、ひとはキャンプにひかれる。誠実さは、要するに無教養ないし知的偏狭さにすぎないかもしれない。

 てことは、ほとんど大概の人はキャンプに惹かれるということだろうか?

    • 54−キャンプの経験は、高尚な文化の感覚だけが洗練を独占しているわけではないという大発見に基礎をおいている。(略)悪趣味についてのよい趣味を発見することは、われわれをまったく自由にしてくれる。

 そんなこんなで微妙ではあるが結局悪趣味かよ。