00年代を途中から俯瞰してみる(敬称略)

大塚英志東浩紀『リアルのゆくえ−おたく/オタクはどう生きるか』講談社現代新書
〜2001年/2002年/2007年/2008年(秋葉原事件後)の対談をまとめたもの。
大きな物語><データベース消費>などをキーワードにざっと振り返ってみると、オタクでない人にとってもそれなりにクリアーな視界が得られる。気軽に参加しやすそうでもある。酒の席でのグダグダ話に近い気もするけど。
東の言説には個の変革論が欠落している/<セレマ>は、大塚が信じているところがある<主体みたいなもの>に由来する?/<大きな物語>の断片は、必然的に絶え間なく、東の言う<データベース>にブチ込まれ続けている/<小さな物語>を<自分的に>大きくする作業を/それってアシッド・トリップと同じじゃないの?…………etc.


思い起こせば10年前、自分は<アニオタ>が駄目だった*1。だがしかし、交流の機会が増えるにつれ徐々に苦手意識を克服し、かつ、そこから今まで見えなかったいろんなものが見えるようになった(気がした)。
そして今、相変わらず自分はオタク系30代が苦手であることに改めて思い至り、何だか愕然としたところ。
…て、そんな大げさなもんじゃないけど、あとがきで東が<大塚の東に対する苛立ち>を真剣に不思議がっている*2ことに、自分は苛立ちを覚えた。
ただし、継承とは、いつだって継承される側の意図とは無関係に行われるものであるから、氏のやっていることに文句をつけようとは思わない。

*1:冗談ではなく、当時のオタクは臭かった。そういう集団が占拠する電車にうかっと乗り合わせてしまった経験はおありだろうか? そんなときは取り敢えず、「ご愁傷様」と自分で自分を慰めるよりほかしょーがなかった。いやホンマ

*2:まさか皮肉を込めたポーズ…などである訳がない。と、せめて好意的にそう思いたいものだ。東という人は、エンエン状況説明を続けつつ、時折仮想システムいじりの脳内ゲームをプレイし、これからの社会システムの在り方という次元では、ある部分積極的に現実にコミットもしていた筈なのだが、結局のところ、だから自分はどうしようというところがフニャフニャしてしまいサッパリ見えないのだ。万歩譲ってそれがこの人なりの美意識だとしても、自分は、果てしない閉塞系の中でぬるぬると消費者であり続ければいいじゃんといった、東的(東が否定も肯定もしない)動物的<意志=生理>状態を良しとはしない。残念ながら、今のところ人間は、生理がそのまま意志であるほど高度に進化した状態には至っていないからだ。そして、東の言説には、個の変革というコンセプトが決定的に欠けている。このような態度によって生産されたプロダクトを、自分は思想とも批評とも呼びたくない