Whiteout〜ここには神秘は無い!
「一本ちょうだいな」
「?」
「タバコ…」
「無い」
「無いてアンタつい今さっき…」
「無いゆーたら無い。ここにはタバコは無い!」
(と言い張る親方の胸ポケットから覗いているハイライトのパッケージ)
この分かりやす過ぎる展開に、あなたは耐えられるだろうか?
耐えるも耐えないも、それってお約束でしょう。お約束とゆーより最早様式美でしょう。お茶とかお華の作法に相当する文化遺産とも言える*1。
ここに、実践を前提にMAGIC(K)を扱った<分かりやすい>2冊がある。
Modern Magick: Eleven Lessons in the High Magickal Arts (Llewellyn's High Magick)
- 作者: Donald Michael Kraig
- 出版社/メーカー: Llewellyn Worldwide Ltd
- 発売日: 1988/08/01
- メディア: ペーパーバック
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- 作者: U. D. Frater
- 出版社/メーカー: Llewellyn Worldwide Ltd
- 発売日: 2005/02/01
- メディア: ペーパーバック
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どちらも今のところ邦訳は出版されていない。よって、私のように英語が不自由な人間の場合は言葉の問題にある程度の手間と注意を奪われることになるから、本の内容が<分かりやす過ぎる>ことについては、さほどの苦もなく耐えられるかも知れない*2。
本の内容は、それが書かれた時期に支配的だったパラダイム、その他の時代背景、文化的環境、それらに対する著者のスタンスなどの影響を受けざるを得ないが、前者は1988年、後者は2005年の出版。そのあたりのギャップを修正しながら読むことは、どちらの場合もさして難しくない筈だ。ガイジンが書いた本ではあるが、ウチの近所のピロシキ屋ムッチャ美味しいのに食べたことない奴はモグリ、といった話でもないからそっち方面も問題ない。
これが何世紀も前の著作ともなれば多少事情が異なり、パラダイムを逆行させなければ理解できない記述に出くわす場面も当然増える。ただし、意図的に逆行させるのと、素でそれに囚われるのとでは、まったく意味が違ってくるけど*3。まずはここ、身も蓋もないほどの分かりやすさが蔓延しているという状況こそが最初のポイント*4。
Q.魔術は宗教ですか? 趣味ですか?
A.何を<魔術>と呼ぶかにもよるが、どちらもyesでありnoでもあると言えます。
はっきり言って今更どうでもいい。だが、はっきりしていることがある。誰も、魔術MAGIC(K)から宗教性を消し去ることなどできないし、同じようにそこから趣味性の痕跡を消し去ることもできないということ*5。早くから趣味として宗教に熱中することが可能だった日本の場合、まさにその点を肯定的に再評価できないことには、もうどうしようもないんじゃないか。ともかく、もう誰にも意図的な隠し立てなどできない。これが二つ目のポイント*6。もちろん、魔術をプチ・インテリだけに許されたオナニーの道具として留め置くことも不可能になっている。
この、ホワイトアウト寸前の仮想ハイパーフラット空間的(何のこっちゃ)日本において、今の自分が自分として存在するポジションから<趣味>に至る距離と、<宗教>に至る距離が等しいという人は少なくない筈だ。極私的な恋愛問題と宇宙の運命という壮大な問題が、自分にとって等しく重要であるように。<スピリチュアル世界系>とでも呼べる世界観を、肯定的に捉え直し、新たにセミ・パブリックな物語を紡いでいく為のトライバルな土壌として育んでいくことができるかどうか。そこが勝負だと思っている。別に闘う訳じゃないけど。
(以下おまけ。技術*7について。)
故人だが、ジョン・コルトレーンというジャズ・ミュージシャンがいる。ロック界におけるデヴィッド・ボウイ同様、デビュー以来どんどん表現のスタイルを変えていった人で、その意味でソニー・ロリンズとかラモーンズなんかとは対照的。
某サキソフォン奏者によると、彼はとにかく無茶苦茶練習した人で、「その証拠に時代ごとに手クセが変わっている」のだそうだ。自分はサックスを吹かないので体感として納得することはできないが、理解できる話ではある。
もちろん、コルトレーンの音楽を単なる個人的な性癖だ、などと言おうとしている訳ではない。ただ自分は、その偉大な音楽が、単なるクセを使って産み出されたものであることを否定する根拠を持たないという話だ*8。
魔術MAGIC(K)における技術も同様、単なるクセだ。と言って問題があるなら、どうもそんなようなところがある。みたいよ。ただしそれは、手クセと言うよりは神経系の使い方におけるクセみたいなものであることを、一応断っておく*9。技術それ自体は、それを使って体感/構築しようとする世界/状態と決して「=」ではない。さらに、技術を使って到達する世界は、年齢や性別、住んでいる地域などに関係なく出入り自由である*10。そして、問題はいつだって<全体>だということ。
PAN=全を召喚せよ!
*1:文化遺産にまで高められたお約束。魔術MAGIC(K)における儀式Ritualのフォーミュラも、その集積にほかならない
*2:もちろん、それを理論の上で理解することと、実践し体感レベルで効果を知ることとは、まったく異なる
*3:その書物が書かれた時代と、読書が<実践>される時代とのパラダイム・ギャップの調整は、純粋に読書の技術の問題。必要な技術レベル及び応用範囲は、読書の目的による。…ややこしい言い方になってしまい恐縮です。要するに、1.読んでそこに書いてある内容を理解したいのか、2.実際にその様式を再現したいのか、3.その効果を体感したいのか…ということであり、ここで自分が言っている<魔術MAGIC(K)の実践>は「3」に相当する
*4:ということだから、今更あなたの語る紋切型の定型は要らない。そういういかにも三次四次五次情報を素人がヘタクソに再編集しましたといった話なら少しもありがたくない、週間ウィークリーマガジンでさえ買わないような脳内原稿、わざわざお教えいただくまでもございません。…という態度を、まずはとってみる。自身が紋切型の定型から抜け出さないことには、どーにもこーにもおさまりの悪いことになる筈だ
*5:魔術なんて、良くも悪くも、所詮は余裕のある好事家のお遊びじゃないかという言い種がある。自分の場合、魔術MAGIC(K)には「余裕があってこそ初めて」「食べることにさえ優先」の両面があるような気がしている
*6:特権的にその筋の情報を独占している特定の個人など、最早どこにも居ない。確信を持って膝を崩し、まずは楽にされたい。話はそれからだ
*7:主に30代後半以上のベテラン的な方々へのお願いなので関係ないと思われる向きはスルーしていただければ幸い。MAGIC(K)における技術ということだから、つまりはartの訳語? とか、決して変なふうに勘繰らないでほしい。確かに、英語のartには技術の意味もあるようだが、だからと言って「魔術は技術である!」などと澄んだ目でお教え下さるのは何と言うかありがとうございます。自分の考えでは、これも、多感な時期に単純な誤訳を信じ込んじゃいましたという魔術的履歴を示すサインの一つということになるが…artはアートでいいんじゃないでしょうか。…書くの忘れてたけど、ここで私が言う技術とは、「ある目的を達成する為の手段の一つ或いはそれをトレーニングの都合上さらにいくつかに分解したもの」
*8:逆に言えば、コルトレーンとは、単なるクセのレベルに至ってしまうほど徹底して技術を磨いた男だった、ということだろう
*9:ではあるが、だからこそ、<技術>はエクササイズの為に一つひとつの小さなクセにまで分解することは可能であるし、訓練次第ででどうとでもなる(かも知れない)ものだ
*10:北欧のデス・メタル〜ブラック・メタル(彼等にとってのサタニズムはラヴェイではない。売名行為の要素も指摘される過激な暴力や反キリスト教行動はともかく、宗教的には概ねオーディンを中心とする北欧神話体系の復権を目論むペイガニストと見て良さそうだ)系ロッカーたちの中には、まるでサウナのように刑務所を出たり入ったりしている連中がいる。入ってサッパリして出てきては再びギンギンにプレイする。これを自分は、北欧サウナ文化の賜物と理解しているのだが…やっぱり違うんかな?