Sky Goddess Nu Lodge,OTO 公開スタディグループのお知らせ
◇日時:2月26日(日)16時‐18時大阪心斎橋
◇プレゼンター&テーマ:
Bro.Y「ヴィパッサナーおよびブッディズムにおける瞑想について」
◇参加費:無料(1ドリンク+1フードをご注文下さい。ケーキセット可)
※参加ご希望の方は前日までにご一報せください。こちらからじゃなくオフィシャルサイトからまたはTwitterその他知ってるチャネルからどうぞ。
以上告知に使ってみるテスト。でもガセじゃないです。
Happy Summer Solstice!
An Origin of New Aeon Bon Dance
蟹光線(BLACK FLAG再読)
雨が降っている。濁流の中をワニが泳いでいる。濁流の底にあるアスファルトの路面よりかろうじて一段高い歩道の上では、浴衣姿のキャバ嬢が、一列に並んだ初老のかまってちゃんを、一人ずつ段取りよく流れに突き落としている。突き落とされるかまってちゃんたちは、タクシーを待っているつもりらしい。突き落とす彼女は艶やかな緋色を纏って、浴衣姿で祭りに出かけて行く女の子たちを遠目に見送りつつ、浴衣祭りで居残り。差している透明のビニール傘が、いかにもテキトーな印象を与える。
ライムの代わりにすだちを突っ込んだコロナビールを飲みながらフラフープを回していると、窓からそんな光景を眺めているかのような、強烈な既視感を伴う白昼夢を見た。もしかすると自分は、この時の為にわざわざスペイン語のマジカルモットーを考えついたのではないだろうか。否、それどころか、今となっては、とても自分が考えたものとは思えなかった。
雨の匂いの中、しょんぼりと肩を落とした青年が、傘も差さずにこちらへ近づいて来る。ワニのいる流れに落としてしまったのである。今しがた肩よりも傘よりも執着する対象を失ったばかりの彼には、そんな小さなことに構っている余裕はない。青年ご執心の相手が、祭りで浴衣だったか、浴衣祭りだったかは定かでない。甘ったるい香水と緋色が、花火の拡がりにオーバーラップする。彼は、祭りには行かない。それでも自分は××大の院卒だし、実家は何代も続くちょっとした地主の家系であり、このことに何一つ変わりはないのだ。青年は、そう思い直し少しだけ心に落ち着きを取り戻すことに成功する。もし成功しなかった場合は、メンタルのメタドン療法を必要としただろう。
雨が降っている。雨粒に混じって蟹も一緒に降っている。ワニは蟹を食べない。代わりに人間が食べる。ワニに食べられることのない蟹は、濁流の中で繁殖し続ける。で、おまえの自信の根拠って、結局何だったのよ? 自分で想像した香水の甘ったるい香りにむせながら、自分はコロナの瓶の中に、アンゴスチュラビターを一滴落とす。腐ったヨードチンキのような味がしてたまらなく不味かったので、窓から放り投げた。口直しと言っちゃ何だが、一時間後には仲間と蟹鍋をつついているはずだ*1
当たり前だが、危険とエッジはぜんぜん別なものだ。危なけりゃいいって、そんな馬鹿な話はない。と、USTREAMにて、先日東京で行われた魔女のお勉強会? WICCPOTなるイベントを見ていて改めて思った。
http://www.ustream.tv/recorded/1488353
「エッジが効いてるね」という言い回しは、今後ますます、ぜんざいに微量加えられた塩加減の妙や、出汁の効いたうどんつゆを称えるがごときニュアンスを帯びていくだろう。
ちなみに、こちらで式次第も入手可。
http://ramipas.illumine.jp/2011/05/22/wiccpot式次第/
特に最後の3行、無茶苦茶カッコ良し。
自分は何でか、昨年、岡山のHIKARI CLINICと併設のフローティングタンクサロンCOCOONにて、初めてタンク・インした時の体験を思い出していた。恥ずかしながら、正直なところ、直前まで<構えて>いた。
結局いらんのよ。そんなもんはみんな。
何でか、自分の中的にラテンアメリカ文学のリアリティが高まっている。
この夏は、必然的にコロナビールをアホほど飲むことになるだろう。
人はパンのみにて生きるにあらず。
・・・・・・・・・・パンの耳でも生きられる。イオ・パン!
おい、そこのお前、吹っ切れた?
Under the Black Flag: Exploits of the Most Notorious Pirates (Dover Maritime)
- 作者: Don C. Seitz
- 出版社/メーカー: Dover Publications
- 発売日: 2002/03/20
- メディア: ペーパーバック
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
- 作者: ウイリアム・S.バロウズ,飯田隆昭
- 出版社/メーカー: 思潮社
- 発売日: 1988/09
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
*1:【蛇足】これから日本が経済的に沈んで行くことは間違いないが、自分はこのことを特に残念とは思わない。人はパンのみにて生きるにあらず。パンの耳でも生きられる。のだから。イオ・パン! とは言え、いろんな意味でスルーされるケースが増える過程で、残念ながらメンタルのコンディションを崩す人たちが増えるという状況は避け難いだろう。最低限の誇りと自信を保つ為には、何にでもつかまれば良いと思う。但し、暫定で。取り敢えず元気と落ち着きを取り戻したら、遅かれ早かれ、それらの根拠が、いかにくだらないものだったかを見ることになるだろう。抱え込み閉じるのではなく、手放し開くこと。真剣に闘っている他人を笑うのは良くないことかも知れないが、滑稽な場面は際限なく繰り広げられるだろう。今、君がすがりつこうとしている対象は、ほかならぬ君自身が、昨日まであんなに馬鹿にしていた当の物ですよ。みたいな。経済が駄目なら文化へ、今が駄目なら伝統へ…。人々の関心事がそんなふうにシフトしつつあるが、うさん臭い動きには要注意。新しい価値観の創造、パラダイムの転換、人類の進化の兆し…それらと、単なる退行現象を混同しないこと。異質なものとの出会いによってもたらされる覚醒には、しばしばネガティブな感情が伴うが、それらをきちんと対象化すること。こんなくだらない学校、もうヤメてやる! そう言いつつ、クラスメイトに無理やり引っ張って行かれた修学旅行先で他校生といざこざを起こすに及んで突然愛校心に目覚め「○○校ナメてんのか!」か何か叫んでしまう中高生。成人した後、これと同じ次元の行いを繰り返すのは、あまりに恥ずかしいじゃないっすか。ともかくこうして、日本人は、ひょんなことからエゴの問題に直面することになった訳だが、果たして自分は、絶対頑張ろうとは思わない。むしろ、自らの変容を邪魔することのないよう、どんどん力を抜いていこうと思う。誤解しないでほしい。このような状況下で、「あなたは今のままでいいんです。人間はそのままで完璧なのだから」などと発言する者が普通に張り倒されても仕方ない…は言い過ぎにしても、普通に笑われても仕方ないよねという認識は、一種のコモンセンスとして形成されるだろう。変わらないことが良いことであり、安心のもとだったのは、過去の話だ。<取り戻す>ことと<捨てる>こと。反対のベクトルを持つエネルギーを同時に発動してしまうが故に、悪しき力の均衡の犠牲となってその場から一歩も動けない、もっと悪くするとそのまま二つに引き裂かれてしまう…といった、一途に頑張る人が得てしてハマリがちなトラップからも逃れたい。ハッピーであるにこしたことはないが、意味不明の多幸感は邪魔だ。○○プトを買うぐらいならGIジョーを買う。という訳で着地点が見えなくなったので終わります。ほらね、多幸感ってやっぱり邪魔でしょ。おやすみなさい!
スーダラ節再降臨
人間の業をコミカルに歌った1962年のヒット曲。何れも甲乙つけ難いが、強いて言うなら個人的にはマイケル・ジャクソンバージョンが最も好みか。ここでは、ベーシックなところでアルコオル、ギャンブル、セックスの3テーマが取り上げられているが、21世紀に至り、更にシリアスで洒落にならない<原発>が、新たに広くスーダラ認定されることとなった。
最早、個人の問題で済まない*1ところまで、人類は<進化>を遂げたと言えるのかも知れない。
これはオマケ。最近アップされたようだ
↓
復活後のゲルニカによる「蘇州夜曲」
大友良英ニュー・ジャズ・オーケストラの演奏が凄過ぎる
*1:とは言え、自分を除外して特定の利権構造を批判することが、抜本的解決につながるとも思えない。ところで、ある意味、厄介な利権構造の原因とも言うべき、企業(その他)間のアライアンスが、他にもたらしたものは何か? 敢えてポジティブな側面を取り上げるとすれば、これはもう<関係性への新しい視座>に尽きる訳で…。と、ここでレトロアクティブにスロウダウン。たとえば、「モノは作れるが、販売ルートを持っていない」企業が商社と組む。この段階では、未だ<関係性への新しい視座>が芽生えることもない。次の段階、即ち「現時点で、自社単独では売りたいモノさえ作れないが、もしB社と組むことができれば…」といった思惑が実行に移された場合はどうか? この場合も、「A社はB社およびC社と組んで、D・E・F社連合を迎え撃つ」といったアニメチックな構図の輪郭線をことさらに浮かび上がらせたぐらいなんではないか。がしかし、企業にとっての「開発コストを抑えられる」上に「時間を短縮できるので市場参入の好機を逃さずに済む」というメリットは、<アライアンス>の流れに拍車をかけ、自ずと競合/依存が同時に入り組んだ重層的関係性を明らかにし、出来合いの敵/味方モデルでは、現状の説明すらつかないことになってきた。てかまあ、関係性ってもともとそーゆーことなんですけどね。このあたりは国と国、個人と個人の関係においても同様。ここに至って、<関係性への新しい視座>は、ようやく一種のコモンセンスとして定着する気配を見せている。たとえば、原発利権システムの中にガッチリ組み込まれ、オール電化を推進してきた家電メーカーが、一方で太陽光発電に力を入れていたり。てか、オール電化のキラープロダクツたらがほかならぬ太陽光発電システムだったりするし、しかも誰もがそれを知っている。とか。で、果たして、今、我々に求められているのは、複雑な関係性の糸を独りで一つひとつ解きほぐしていくような地味かつ遠大な作業か? 自分はそうは思わない。そうですね、まずは「いいね」「いらね」の意志表示をしてみる。とか。しかしアレです。ポジティブな発言をするのがシンドイ状況下で、敢えてネガティブな発言はしたくないと思うのであれば、本当はブログなんか書かんでいいんじゃないか
Plactice 4 Now and Future
1)緊急に必要なものと、本当に大切なものをリストアップし、それぞれに優先順位をつける*1
2)どーゆー基準で、どこまで? トゥーマッチなものとの付き合い方について、思うところを述べてみる*2
3)敢えて「自己責任」を禁句とする*3
4)新しい部族社会におけるユニバーサルデザインを描く*4
単に、貧乏臭くショボクレていくのではなく、ホントにいい感じに変わることができますように。
RVR 震災とお花見の自粛:
http://video.jp.msn.com/watch/video/rvr-%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%81%A8%E3%81%8A%E8%8A%B1%E8%A6%8B%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%B2%9B-hd/5355as8c
*1:実際に書き出してみることを推奨。サバイバルと幸福のために。「ほしいものがほしいわ」というかつての西武百貨店のコピーも推奨。クリスタルは水晶。小水はションベン。実際の話、自分にとってMAGICKとは何かということ。中途半端でうやむやにせず、必ず優先順位をつけるところまでやりたい。なぜなら、優先順位をつけられないでいる状態とは、相互に異なるベクトルを持つ自らの欲求群によって、ただただ静かに引き裂かれているヤラレちゃんでしかないのだから。まず、この状態から抜け出さないことには、全ての実践は永久に始まりようがない
*2:思えば、我々はトゥーマッチなものに囲まれ、トゥーマッチに利用し、トゥーマッチに過ごして来た。言わずもがなではあるが、ブラックボックスとトゥーマッチはカブるところも多いが、別の概念ね。何でもかんでも無闇に自粛しましょうということではなく、様々なリスクも視野に入れながらトゥーマッチを利用するということは、トゥーマッチに支配されるということでもある。ここを考えたい。自分は、しょーもないちょっとしたPCトラブルすら自分で解決できない人間である。そのへん、うまくやっている知人は多いが、そんな彼らだってハードの故障になるとすっかりお手上げで、メーカー修理に頼るしかない。まあ、いくら激しくPCが壊れたところで、放射能ダダ漏れ状態にはならないんだが。「3」とカブるところだが、小さな一個人で取れる責任なんぞ、たかが知れたものだ。「自己責任で」などとカッコつけるのはやめよう。個人どころか、地域共同体やその延長である国家でさえ負うことのできないリスクをどうするのか。そーゆーリスクに関わる意思決定をどうするのか? ということ
*3:それでも「自己責任」という言葉を口にしてしまったなら、その都度二の腕を聖カミソリで切りつけると良い。「自己責任」という言葉は何とゆーか、多くの場合広告や取り説なんかでおなじみの免責文言みたいなもんで、単に「俺たちのせいじゃないもんね」と言っているに過ぎず、潔くやれば全て「責任を負いかねます」に収斂可能だ。例:「ゲーティア?どうぞどうぞ! ただし、結果については一切責任を負いかねます」。このへん誤魔化さないようにしたい、と立場上もあり肝に銘じる次第である。また、この機会にセレマイト=リバタリアンという解釈が誤解であることも明言しておきたい。で、ここから先が本当に言いたいこと。昨今の状況は、ある種西洋儀式魔術的とゆーか、原因を自分の外に求める態度、「社会が悪い!」的な言い種が非常にかっこ悪いことになっている。ベルリンの壁もそれに代わる代替品も既になく、ロック兄ちゃん的反抗はもの笑いの対象と成り果て、今や単純に反社会的な態度とは社会的禁治産者…は言い過ぎにしても、少なくとも典型的には社会的弱者のロジックであるからだ。反対に、東洋神秘主義的というか、原因を自分の裡に求める態度、即ち、場合によってはあまりにも簡単に「自己責任」を認める自虐的な態度がカッコイイ…は言い過ぎにしても「大人」であったり「立派」な態度として評価される。あるいはそのような倫理観が意味もなく支配的と見受けられる。残念なことではあるが、「サブカル」に元気がなくなり〜という言い方は厳密には間違いである。実際には、裏や地下から同一空間上の別レイヤーへと移行し、見えやすく/見えにくくなっただけの話〜狭義にはアニメ特撮を指す言葉になって以降、この状況は加速度的に進んだ。断言するが、これは極めて不健全な状況である。それこそがカッコ悪い! そこがバカ! と見抜き感じることができるか? ということ
*4:単純に「元に戻す」ことが目的なのか、「変える」ことが目的なのか。最低限、このあたりに関して常に意識的であり明晰であり続けること。「変わらない」ことを前提にした未来予測を、あまり相手にしないこと。そんなものを真に受けて一喜一憂しないこと。たとえば、「夏場の電力がいくら足りなくなる」といった予測は、震災前の電力需給〜つまりその状況を生み出す社会のしくみとか社会を構成する人々の生活スタイルとか…を前提としている限り全く意味がないし、そのような数字を根拠にした政策は、やる前から失策に決まっている